大野弁吉は京都五条通り羽細工師の子として生まれ、20歳のころ長崎に行き理化学、医学、天文学、鉱山学、写真術、航海術を修得した後、対馬・朝鮮にも渡ったといわれています。帰国後京都に帰り中村屋八右衛門の長女うた(加賀国大野村生まれ)の婿となり、1831(天保2年)石川郡大野村(現金沢市大野町)に来て永住しました。
隣町・金石の「海の豪商」銭屋五兵衛とも交流があり、藩主が弁吉の博学を聞き20人扶持で召しかかえようとしましたが、それに応じず、生涯清貧のうちに過しました。当時としては最先端の科学を駆使した発明品の数々は、現東芝の創業者で「からくり儀右衛門」と呼ばれた田中久重の技術に匹敵するといわれています。
また、「一東」、「鶴寿軒」と号し、木彫、ガラス細工、塗り物、蒔絵などのほか、からくり人形には優れた名作を多く残しました。弁吉自筆の「一東視窮録」は彼の覚え書き綴りで、科学機器エレキテルボルダ式パイルなどの図解、色ガラス、火薬、写真器、大砲、医薬品などの製法、調合、寸法などが記述されたものです。
大野弁吉は京都五条通り羽細工師の子として生まれ、20歳のころ長崎に行き理化学、医学、天文学、鉱山学、写真術、航海術を修得した後、対馬・朝鮮にも渡ったといわれています。帰国後京都に帰り中村屋八右衛門の長女うた(加賀国大野村生まれ)の婿となり、1831(天保2年)石川郡大野村(現金沢市大野町)に来て永住しました。隣町・金石の「海の豪商」銭屋五兵衛とも交流があり、藩主が弁吉の博学を聞き20人扶持で召しかかえようとしましたが、それに応じず、生涯清貧のうちに過しました。当時としては最先端の科学を駆使した発明品の数々は、現東芝の創業者で「からくり儀右衛門」と呼ばれた田中久重の技術に匹敵するといわれています。
また、「一東」、「鶴寿軒」と号し、木彫、ガラス細工、塗り物、蒔絵などのほか、からくり人形には優れた名作を多く残しました。弁吉自筆の「一東視窮録」は彼の覚え書き綴りで、科学機器エレキテルボルダ式パイルなどの図解、色ガラス、火薬、写真器、大砲、医薬品などの製法、調合、寸法などが記述されたものです。